脳。水槽。肉体。

marriage

予定がなくなるのは嬉しい。

いつからか、おれの人生は、おれの望みとは無関係な予定で埋め尽くされるようになった。

 

おれの悪癖。

いつか王子様が現れて、おれをこの生活から救い出してくれるという夢想。

中学生くらいから始まったこの夢想は、今もなおおれの中にあって、折に触れ、ふっと立ち現れては、おれの正常な(笑)現実感覚を麻痺させる。

 

 

恥ずかしげもなくこんなことを言って、誰かに慰めてもらおうと考えること自体が悪癖だ。

三島由紀夫「海と夕焼」

三島由紀夫の「海と夕焼」を読んだ。素晴らしい作品だった。

少年(少女)の時分、自分の人生には何か素晴らしいことが訪れるんじゃないか、そういう「奇蹟」の到来を半ば確信的に予感した人は多いのだろうか。少なくとも自分はそうだった。

それは自我の発達の過程で、原始的な体験の世界から移行し、自己という確固たる存在を形成していく際に生じる世界観ではないかと考えるのだが、大多数の人間が早々に挫折し、自己の限界を知り、この世界観が単なる誤解であったことを認めるところ、三島由紀夫のような天才は(ともすれば文学の力業を使って)その理想世界に長くとどまり、その中に自己を発見したのではないか。

しかし、いかに天才といえど、終生この理想世界にとどまることはできず、やがては如何ともしがたい現実と出会うことになる。「海と夕焼」では海が祈りを拒絶する現実のメタファであり、その向こうにある夕焼は海によって隔てられた故郷フランスであり、理想世界のメタファである。

三島由紀夫にとって敗戦とは、戦後に自分が生きることになった現実と戦前の幻想的な世界の境界に与えた符牒にすぎず、戦争に勝ったか負けたかは問題ではなく、三島由紀夫の根底には奇蹟が起きさえすれば続く筈だった理想世界への郷愁だけがあったのではないかと思うのだ。

三島由紀夫ナショナリズムとは単なる自殺の為のでっち上げで、三島由紀夫は結局、理想の世界で見つけた幸福に比して生きるに値する何かを戦後社会という現実の中に見つけることなんて全然できなかったのだろうか。

海と夕焼の老僧安里のような、久遠の時の中へ溶けていく穏やかな晩年が、三島由紀夫に訪れなかったのは、三島由紀夫の過剰な自意識のためだけであろうか。

父性について思うこと

父性の衰弱が昨今の病的な社会の原因だという言説を何処かで目にしたことがあるが、これはまあ当たっていると思う。

 

三島由紀夫の病根には、父性の不在があったと感じる。

だからこそ三島由紀夫は、蓮田善明や稲垣足穂になき父親の姿を探すのだが、三島由紀夫の父親はちゃんと生きている。

三島由紀夫が気づかなかっただけだ。

三島由紀夫は、実父の平岡梓にこそ、父性を求めるべきだった。

天才の三島由紀夫を理解できず、それでも息子を案じて七転八倒する姿こそ、本物の父親の姿ではないのか。

蓮田善明が、稲垣足穂がナンボのもんだと勝手ながら言いたくなる。

 

夏目漱石の「こころ」の主人公は愚昧な(主人公にはそう見えている)父親を捨て、謂わば未知への憧れから先生のもとへ向かうわけだが、先生は自ら死ぬだけのことだ。

明治の精神に殉ずるピューリタン、といえば聞こえはいいが、要は先生は勝手に時代を代表して自己陶酔的に死んだといえる。

一方で主人公の父親は、小市民的な視野の中に人間天皇の姿をはっきりと捉えている。

こころという作品の本質は、先生と父親の関係の中にアイロニカルに浮かび上がるのだ。

夏目漱石には、近代の辿る末路が、既に見えていたのだろう。

 

ヤハウェ天皇ブルカニロ博士

今日も父親は天空にいるのだろうか。

革命なき世界で

三島由紀夫と芥正彦の討論を見て、寂しさを感じた。

 

芥正彦が三島由紀夫をデマゴーゴス(扇動家)としきりに揶揄して、これからの時代には街頭ブランキストやトロツキストのような連中が現れるようになると警鐘を鳴らしているのだが、結局それらは全然現れなかった。

三島由紀夫は死に、全共闘運動は跡形もなく消え去り、国家はナラティブを失い、空虚な、資本主義というシステムを維持するだけの経済動物が残った。

 

芥正彦の言うように虚構形態が支配したのか、つまり戦前の天皇を中心にした支配体制が、資本による支配に置換されたのか、といえば、それは違う。

資本は主体性を持っていない。その代わり、リアリズムと徹底して結びついている。

われわれのリアリズムが、資本を媒介物としてわれわれを支配している。

そこにはもはやイデオロギーも、軍隊のような暴力装置も必要ない。打倒する敵はおらず、悲劇はなく、全てが無味乾燥なリアリズムに吸収される。

 

山本一佐は、クーデターに逸る森田必勝を、「私にはまだ真の敵が見えていない」と言って諌めた。

見えるはずがない。

真の敵などいなかったのだから。

少年①

おれの考える完璧な美少年というのが存在したとして、それは完璧な簒奪者であるだろう。

エロス的にのみ世界と関係し、自分の外のあらゆるものを失格させる。そんなことが可能な存在を、おれは完璧な美少年と考えているからである。

 

おれは美というものを、世界を歪曲させる力だと思っている。

基本的に美は何らかの媒体を通して世界に作用するので、現実を直接脅かすことはないと見られているが、それが肉体を媒体にした場合どうなるか、ということである。

 

これは、確信から言うわけではないが、美少女では相応しくないのではないかと考えている。

それは女性の問題ではなく、構造の問題であって、仮に美少女がどれだけ傲慢で、放埒であっても、多くはそのままに世界の一形態であり、そこには歪みがない。

つまり少女には「変革」の可能性がないからである。少なくともこの道筋の上には。

ボヴァリー夫人は、ロマンに取り憑かれ、暴走し、やがて敗北する。

この敗北は、それ自体が変革である。なぜなら、敗北するということは、その存在は勝利者の対象に立っており、既に構造を脱しているからである。

ただしボヴァリー夫人は、フローベール自身の投影であり、文学的な偽装である。