父性について思うこと
父性の衰弱が昨今の病的な社会の原因だという言説を何処かで目にしたことがあるが、これはまあ当たっていると思う。
三島由紀夫の病根には、父性の不在があったと感じる。
だからこそ三島由紀夫は、蓮田善明や稲垣足穂になき父親の姿を探すのだが、三島由紀夫の父親はちゃんと生きている。
三島由紀夫が気づかなかっただけだ。
三島由紀夫は、実父の平岡梓にこそ、父性を求めるべきだった。
天才の三島由紀夫を理解できず、それでも息子を案じて七転八倒する姿こそ、本物の父親の姿ではないのか。
蓮田善明が、稲垣足穂がナンボのもんだと勝手ながら言いたくなる。
夏目漱石の「こころ」の主人公は愚昧な(主人公にはそう見えている)父親を捨て、謂わば未知への憧れから先生のもとへ向かうわけだが、先生は自ら死ぬだけのことだ。
明治の精神に殉ずるピューリタン、といえば聞こえはいいが、要は先生は勝手に時代を代表して自己陶酔的に死んだといえる。
一方で主人公の父親は、小市民的な視野の中に人間天皇の姿をはっきりと捉えている。
こころという作品の本質は、先生と父親の関係の中にアイロニカルに浮かび上がるのだ。
夏目漱石には、近代の辿る末路が、既に見えていたのだろう。
今日も父親は天空にいるのだろうか。