脳。水槽。肉体。

三島由紀夫「海と夕焼」

三島由紀夫の「海と夕焼」を読んだ。素晴らしい作品だった。

少年(少女)の時分、自分の人生には何か素晴らしいことが訪れるんじゃないか、そういう「奇蹟」の到来を半ば確信的に予感した人は多いのだろうか。少なくとも自分はそうだった。

それは自我の発達の過程で、原始的な体験の世界から移行し、自己という確固たる存在を形成していく際に生じる世界観ではないかと考えるのだが、大多数の人間が早々に挫折し、自己の限界を知り、この世界観が単なる誤解であったことを認めるところ、三島由紀夫のような天才は(ともすれば文学の力業を使って)その理想世界に長くとどまり、その中に自己を発見したのではないか。

しかし、いかに天才といえど、終生この理想世界にとどまることはできず、やがては如何ともしがたい現実と出会うことになる。「海と夕焼」では海が祈りを拒絶する現実のメタファであり、その向こうにある夕焼は海によって隔てられた故郷フランスであり、理想世界のメタファである。

三島由紀夫にとって敗戦とは、戦後に自分が生きることになった現実と戦前の幻想的な世界の境界に与えた符牒にすぎず、戦争に勝ったか負けたかは問題ではなく、三島由紀夫の根底には奇蹟が起きさえすれば続く筈だった理想世界への郷愁だけがあったのではないかと思うのだ。

三島由紀夫ナショナリズムとは単なる自殺の為のでっち上げで、三島由紀夫は結局、理想の世界で見つけた幸福に比して生きるに値する何かを戦後社会という現実の中に見つけることなんて全然できなかったのだろうか。

海と夕焼の老僧安里のような、久遠の時の中へ溶けていく穏やかな晩年が、三島由紀夫に訪れなかったのは、三島由紀夫の過剰な自意識のためだけであろうか。